ときわ路パスは茨城県内の大部分の鉄道が¥2000(現在は¥2180)で乗り降り自由となる素晴らしいフリー乗車券だ。このときわ路パスを使用して茨城県内の観光地を行ってみようと考えた。常磐線を経由して勝田駅で降りてひたちなか海浜鉄道へと乗り換える。

なんかフツーの車両だなぁ

ひたちなか海浜鉄道の終点の阿字ヶ浦駅に30~40分乗って到着。

ここからひたちなか海浜公園へのシャトルバスが出てるんだね。

9:19 では阿字ヶ浦駅から磯崎駅まで歩いてみましょう。

9:22 阿字ヶ浦駅を出て2~3分で左手に神社が現れた。

堀出神社っていうんだ。当時はこの参道の左手に特になにもなかったがその後、ほしいも神社なる新しい神社が増設されたみたい。

シブい拝殿だ。

こりゃ2011年の震災の影響だな。

9:29 堀出神社から5分ほど歩くと右手に気になる標識が出てきた。

前方後円墳…へぇー

ウェブサイトによると「川子塚古墳は,全長約81m,高さ約9mの市内最大の前方後円墳です。発掘調査が実施されていないので詳しいことはわかりませんが,5世紀後半頃につくられたと考えられます。」まぁ宮内庁管理でないので天皇家とは関係ないんだろうね。

県道6号を進み左手にある公園に入ると

また石碑だ。こんどはなんだ?

ひたちなか市のHPより「寛政2年(1790),水戸藩第六代藩主徳川治保公が酒列磯前神社の神主磯崎山城の屋敷を訪れ,その際,屋敷の東方の高台より眼前に広がる大海原と白砂青 松の海辺を景勝の地として賞賛し,翌年,その地に東屋を建てさせ「比観亭」と名づけました。史館(彰考館)総裁の立原翠軒(たちはらすいけん)が揮毫した 扁額を掲げたほか,藤田幽谷(ふじたゆうこく)が作成した比観亭碑文が残されています」ということだ。別荘地みたいな感じだったのかな。

いい眺めだ。雨が降ってるのが残念。

ズームしてみると…おぉやってるねぇ。

9:42 阿字ヶ浦駅から歩いて20分程で酒列磯前神社に到着。

「酒列磯前神社は、斉衡3年(西暦856年)12月、神が大洗磯前の海岸に出現したので、大洗と酒列磯前に社を営んだと伝えられています。この地は椿山と呼ばれており、椿が密生していたといわれています。参道や境内には、ヤブツバキやダブノキ、スジダイなどの常緑広葉樹を主体とする自然林が広がり、ハマギクなどの海岸性の植物も混生しています。現在はパワースポットとして人気を集めています。創建年代 斉衡3年(西暦856年)」

この参道の樹木が天然記念物に指定されているんだ。

参道を進んでいくと・・・

「斉昭公(なりあきこう)お腰かけ石」だって。ウェブサイトによると「水戸藩九代藩主「徳川斉昭公」が、ヤンサマチという競馬祭を見物する際に腰をかけたと言われる石です。」ということだ。

かっこいい本殿だ。

参道を左手に分岐する「海の見える鳥居」からはその名の通り海がを眺めることができる。

こりゃ灯篭だったんだろうな。地震で崩れたんだろうな。

こうして酒列磯前神社の見学を終えた。酒列磯前神社から15分程歩くと磯崎駅が見えてきた。

10:05 磯崎駅に到着。

これが阿字ヶ浦駅から磯崎駅まで歩いたルート
駅前に観光マップの看板があった。けっこう見どころがあるね。

磯崎駅で列車を待っていると・・・おおお!昔懐かしいディーゼル車が入線してきた!

これは昔懐かしい感じで思わずテンションが上がる。

こうして次なる目的地・那珂湊駅に到着。

10:25 那珂湊駅に降り立ち、まずは反射炉のある山上門を目指す。

10:32 駅から10分も歩かないうちに山上門に到着。

ひたちなか市HPより「山上門は,もとは勅使奉迎(ちょくしほうげい)のため水戸藩江戸小石川邸(文京区後楽1丁目)の正面右側に設けられたもので,後に屋敷内の「山上」と呼ば れる場所に移築されたことが名称の由来であるといわれています。この門は,薬医門という形式で,本柱と控柱により支え,その上に切妻の屋根を乗せていま す。薬医門は城や寺院などの門として用いられています。幕末に水戸藩の果たした役割は大きく,佐久間象山,西郷隆盛,橋本佐内ら諸藩の志士たちもこの門を くぐり,小石川邸に出入りしたと伝えられています。昭和11年に名誉市民の深作貞治(ふかさくていじ)氏が,当時の陸軍省から山上門の払い下げを受け,当 地に移築しました。小石川邸の建物のほとんどが失われた現在では,歴史的に重要な価値を持つといえます。」ということだ。なんだ、もともとここに建てられたものじゃないのか。

ここから中に入ると・・・おお!

こりゃすごい。

ひたちなか市HPより「幕末になると那珂湊沖などに異国船が出没するようになり,水戸藩第九代藩主徳川斉昭公は国防の必要性を強く感じ,水戸藩では鉄製大砲の鋳造を計画しまし た。反射炉は,大砲鋳造に必要な大量の鉄を溶解する炉で,オランダの技術書や,先行して事業化した諸藩に学んで建設されました。反射炉の名称は火炎を炉体 内部で反射させて熱を効率的に集める構造に由来します。安政元年(1854)に着工,同2年と4年に1炉ずつ完成し,二十数門の大砲が鋳造されたといわれ ています。反射炉は,元治甲子(げんじかっし)の乱(1864)で破壊されてしまいましたが,昭和12年,現在の復元模型が作られました。また,反射炉建 設に力を発揮した飛田与七が残した資料も附として併せて指定を受けています。」なるほど、これはレプリカってことか。

10:50 反射炉跡から川沿いの道を歩いていくとお寺があった。

WIKIによると「華蔵院(けぞういん)は、茨城県ひたちなか市にある真言宗智山派の寺院。1163年(応保3年)に開山されたといわれている。1864年(元治元年)の天狗党の乱のあおりを受け焼失した。1881年(明治14年)に再建されている。当院の梵鐘は、「華蔵院の猫」の民話でも知られているものである。元々は常陸国那珂郡上檜沢村(現・茨城県常陸大宮市)の浄因寺(現在は廃寺)にあったもので、水戸藩より大砲鋳造のために供出させられたが、なぜか鋳潰されずに残ったため、最終的に当院の所有に帰することになった。」とある。

茨城県経委員会のウェブサイトによると「華蔵院境内にある梵鐘は、江戸時代以前に製作された茨城県内でも数少ない梵鐘の一つです。南北朝時代の暦応2年(1339)に製作されたもので、銘文が刻まれています。銘文には、佐竹氏一族の中賀野義長(なかかのよしなが)である源義長が、大工圓阿に製作させたことが記されています。鎌倉時代以降室町時代以前の典型的な梵鐘の形式を示し、高さは117cm、口径は69cmです。この梵鐘は、元々那珂郡上檜沢村(現常陸大宮市)の浄因寺(じょういんじ)にあり、後に満福寺(まんぷくじ)へ移りますが、天保(1830~1844)の頃、水戸藩の大砲鋳造のために徴収されて、那珂湊に運ばれました。結局、大砲鋳造の原料としてつぶされることなく残ったのは、幸いなことでした。」

なるほど、幕末に大砲の原料として召し上げられたけど潰されずに残った奇跡の梵鐘ってことか。

華蔵院から湊公園に入るとなにやら目立つ石碑がみえてきた。

夤賓閣跡?難しい字だなぁ。ひたちなか市HPより「水戸藩第二代藩主徳川光圀公が,日和山と呼ばれる台地に元禄11年(1698)に建設した水戸藩の別邸です。夤賓閣の名称は中国の書『暁典』の「夤賓日 出・」(つつしんで日の出をみちびく)をとり,接待所,迎賓館の意味があります。建物は,建坪が約300坪(1,000平米)で28もの部屋があり,地形 を利用した高低二段の構造でした。光圀公や斉昭公など歴代藩主も訪れ,宴席や詩歌の会が催されました。建物は元治甲子の乱(1864)で破壊されてしま い,その後湊公園として整備されました。」水戸黄門様の別荘みたいなモンか。

風光明媚なこの場所で要人の接待を行っていたということなのかな。

日和山から那珂川方面の展望。

湊御殿の松…これはなんだ。

ひたちなか市HPより「湊公園には,樹齢300年以上の枝振りの見事な黒松が12株生育しています。この松は,水戸藩第二代藩主徳川光圀公が元禄11年(1698)頃,夤賓閣整備に際して須磨明石(兵庫県明石市)から取り寄せたものといわれています。マツクイムシの被害等により名松が失われてしまった今日,非常に貴重な松といえます。「茨城の名木・巨樹100選」にも選ばれています。」黄門様が植えるように指示したってことか。

湊公園から駅方面へ降りるとデカい鳥居が見えてきた。

立派な鳥居だ。

「天満宮は、菅原道真公を奉斎した神社で、今から七百余年前の鎌倉時代、海上に種々の奇端が現われ、神託を乞うや、道真公の神霊が、この地に降ったとのことであった。時の領主は、北野山満幅寺泉蔵院を創建して守護させ、神領として二十五貫文の地を寄せられた。 それ以来、住民の信仰が篤く、南北朝時代の頃には、神前で大般若経の転読が催された記録が見える。神仏混淆の時代には、久しく仏像を安置しておいた。 時が移り江戸時代になると、第二代徳川光圀公は、元禄年中に寺社改革(神仏分離)を行ない、家臣東條常言に命じて、菅公の御神像を造らせ、神宝を添えて遷宮の式を行なわせた。また祭礼の式も改め、社職を泉蔵院別当から柏原明神(現在の橿原神宮)の社守鈴木長門に命じた。 爾来、歴代の藩主は、とくに天満宮を尊崇し、祭礼の式は幾度か改められ、数百年を経た現在も伝承されている。」とある。

本殿で参拝しましょう。

歴代藩主だちもここでお参りしたんだろうな。

11:23 那珂湊駅に戻った。

これが那珂湊駅から周回したルート
那珂湊駅より列車に乗り勝田駅で常磐線に乗換え水戸駅にむかう。

水戸駅で鹿島臨海鉄道に乗換える。

20分ほどで大洗駅に到着。

12:50 では大洗駅より大洗磯前神社へ向かって歩きましょう。

13:35 駅から45分ほど歩いて大洗磯前神社に到着。けっこう遠かった。

海が見える。

立派な山門だ。

「平安時代の書物『文徳天皇実録』によれば、斉衡3年(856)12月29日、鹿島郡大洗磯前に新たに神が降りられた。郡民で海水を煮て塩をつくる者が夜半に海を望むと天が光り輝いているのが見え、翌朝一尺ほどの二つの怪石が海辺にあった。翌日さらに二十余りの小石が二つの怪石に侍座するようにならび彩色は常にあらず形は沙門に似ている。時に里人の一人に神がかりをし「我はこれ大己貴、少彦名命也。昔この国を造り常世の国に去ったが、東国の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰って来た。」と仰せられた。これにより神社を創立。」とある。

参拝を終え、海に向かって階段を降りていくと

海に出た。

おおおぉぉぉ津波・・・生々しい。

大洗港方面に歩いていくと人だかりが出来ている。

そういえばハラも減ったしここで食事することにしましょう。「かあちゃんの店」に入ってみましょう。14時近いけどけっこう並んでるな。

生しらす丼、いいね!

えぇぇ?!完売ですか。

生しらす丼にしたかったなぁ・・・ と思いつつ30分ほど待ってようやく店内に入り

¥1200(当時)の「かあちゃん御膳」を注文した。地魚の刺身としらすのかき揚げ、たこの酢の物、白身魚のかき揚げとつみれ汁でなかなか豪華だった。しらすのかき揚げが特にうまかった。

食事を終え、15時近くなって店を出たが、かあちゃんの店で食事をとろうと並ぶ人は途切れることは無かった。

かあちゃんの店を出ると隣でテントを張ってカニ汁を出す店があったので寄ってみた。

アジア系の外国人が売り子だったのが気になったがここの¥300のカニ汁、メチャメチャ旨い!

14:55 こうして大洗で食事を堪能して大洗駅に来た道を戻ることにした。

15:45 大洗駅に戻った。再び鹿島臨海鉄道に乗車。こんどは鹿島神宮駅を目指す。

大洗を歩いたルート
こんどは鹿島神宮駅を目指します。しっかしこの大洗駅、もっと大洗港の近くに建設できなかったんだろうか。

鹿島神宮駅に到着。

駅から10分程歩くと鹿島神宮の入口だ。

鹿島神宮本殿で参拝しました。

あるウェブサイトによると「鹿島神宮は、古文書では神武天皇元年(紀元前660年)の創建と伝えられている。現在、神宮と称される神社は10を超えるが、平安時代中期の延長五年(927)に編纂された神名帳である「延喜式」の中で「神宮」と記されているのは、伊勢神宮、香取神宮、そして鹿島神宮の三社のみで、由緒と歴史の長さでは別格の存在。日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社である。旅立つ際に道中の無事を鹿島神宮で祈願する「鹿島立ち」の文化も育まれた。祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)で、武の神として古くから皇室や藤原氏の崇敬を受けてきた。」とある。数ある神社の中でも別格なんだとうかがわせる。

鹿島神宮駅に戻って帰路に就いた。ときわ路パスはいろんなところにたくさん廻れておもしろかった。

※2012年5月4日
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