紀ノ川沿いのサイクリングも南海フェリーターミナルに到着してそのゴールを迎えた。時間はまだ
AM11時をまわったところだ。これで終わりにするのはちょい物足りない。

ということで南にちょい移動して和歌の浦方面をぐるっと廻ることにした。

和歌山港フェリーターミナルから10分ちょいで養翠園の案内が現れた。養翠園ってなんなんだろ。ちょっくら寄っていきますか。

おお…なんか重みのあるたたずまいだ。

ここのHPでは「養翠園庭園は紀州徳川家第十代藩主徳川治寶により造営された松を主体とした約33,000㎡におよぶ大名庭園です。池は海水を取り入れた汐入りの池で全国的に珍しく、四季折々の花木が訪れる人々に季節を感じさせます。庭園内には御茶屋 養翠亭が有り、茶室 実際庵(二畳台目)や左斜め登り御廊下など貴重な遺構が保存されております。養翠亭は平成3年より同6年にかけての文化庁所管の全面解体修理により往時の姿を留めております。明治維新前までは五十五万五千石の大藩として、また、御三家の一と誇った旧藩主の遺跡として、旧地に旧状のままよく保存された庭園と建物で、文化財として国指定名勝の指定を受けています。」とある。紀州徳川家の屋敷の庭園ということですね。

ではでは門をくぐって入ってみましょー。

有料なのね・・・なにぃ?¥600もするの?うーん・・・正直、それほど興味があったわけではなかったのもあるけど、この金額を見て急に気持ちが萎えてしまった。

なんかオレってちっちぇえなーと思いながら来た道を戻り

橋を渡って雑賀崎方面に進むことにした。

橋を渡ると道は上りに転じ

おおっ 眺めがいいじゃないか!彼方の陸地は四国だな。

ただ、空腹の状態での上り坂はきつくてちょいバテてきた。この状態で上人窟や番所庭園に行ったら、そこから海岸伝いに戻ることができないのでまたこの標高差をのぼるしかないということを考えると「まぁいっか」となり、このせまーい路地から自転車をひいて和歌の浦方面へエスケープすることにした。

いやーしかし、狭いなー。

これじゃすれ違いも厳しいなー

と、なんとか和歌の浦方面の海岸沿いの道に出ることができた。

ここからは海岸沿いの道を進む。海がきれいだね。

途中、魚釣り園を通過。

橋の上から魚影があるのかなーと見てみると

おおう・・・けっこう良型の・・・これはクロダイ?メジナじゃないよね?

和歌の浦方面に海岸沿いを進むも微妙にアップダウンがあってちょうど昼時を迎え食事をしたくなってきた。

ちょうど昼時を迎え食事をしたくなってきた。なんかお店はないかなーと見ると

おっとっと広場?漁協の運営する商業施設?

と思い、入ってみたが・・・うーん・・・ここは食堂じゃないんだね。まぁ海産物を買うのにはいいだろうど・・・今の自分の需要に対して応えてくれる供給は無さそうかな・・・

ということで空腹のままスルーすることにした。ではこのまま和歌浦天満宮へ進んじまえ。

こうして12時半ころに和歌浦天満宮に到着。

おぉ~けっこうな階段だなー

階段をエッチラとのぼる。意外とそんなに凶悪な長い階段ではない。一段当たりの段差(蹴上げ)は小さい。

本殿ですね。かっこいい。

WIKIによると「和歌浦天満宮(わかうらてんまんぐう)は、和歌山県和歌山市和歌浦にある神社(天満宮)。法人としての名称は「天満神社」。学問の神とされることから毎年多くの受験生が訪れる。延喜元年(901年)に菅原道真が大宰府に向かう途中、海上の風波を避けるために和歌浦に船を停泊した。その時、神社が鎮座する天神山から和歌の浦を望み、2首の歌を詠んだ。その後、村上天皇の康保年間(964 – 968年)に参議橘直幹が大宰府から帰京する途中に和歌浦へ立ち寄り、この地に神殿を建て道真の神霊を勧進して祀ったのが始まりとされる。」平安時代からの歴史があるんだ。

和歌浦天満宮から鳥居の方向を見下ろす。

和歌浦天満宮は紀州東照宮と隣接している。

この紀州東照宮は、ハラも減ってたし2016年12月に一度訪れてるので今回はスルーした。

紀州東照宮はスルーして和歌浦天満宮・紀州東照宮に隣接する御手洗池公園の噴水を一瞥して

次は玉津島神社へむかいましょう

御手洗池公園から5分もしないうちに玉津島神社に到着。

では鳥居をくぐりましょう

鳥居をくぐろうとするとこの立札が目に入ってきた。なになに?小野小町がこの塀に着物をかけたってか。小野小町といえば茨城県の土浦の北部に小野小町の墓所があるということだったが、こちらのほうにもいらした方だったんですね。

こちらが拝殿なのかな?

奥に進むと・・・根上がり松?天然記念物なんだ。へぇー

この玉津島神社を出ると道を挟んだ反対側に不老橋と呼ばれる橋がある。

「不老橋は、徳川家康を祀る紀州東照宮の和歌祭の際に、紀州徳川家や東照宮関係者の人々が、御旅所に向かうために通行した「御成道」に架橋したものである。橋台のアーチ部分は肥後熊本の石工集団の施工であり、勾欄部分については湯浅の石屋忠兵衛の施工と推定されている。勾欄部分は雲を文様化したものが見られる。江戸時代のアーチ型石橋は、九州地方以外では大変珍しく、特に勾欄部分の彫刻が優れている。」なるほど、アーチ橋ってあんまり見ないよね。

おっ 橋を渡っちゃってもいいんだ

これが橋の中央付近からの上流方面のアングルのショット。確かに「雲」だね。

と、橋から目線を道路側に移すと・・・・あそこにまた神社がある。塩竈神社と書いてある。

ここにも神社があるんだね。さっそくお参りしてみましょー!

上部を鉄製の屋根で覆って保護してるんだな。

すごいな。海食崖に神社をつくった感じなのかな?

きれいにリノベーションしてあるね。このロケーションだと津波の直撃を何度もくらってるんだろうな。

ではあとは腹も減ったし和歌山駅に戻るだけ・・・とクロスバイクを走らせようと塩竈神社をまわりこんで県道151のカーブをまがると・・・おおっ?

おやぁ?なんだこのお堂は?こりゃ橋を渡って見に行かなきゃならんでしょー

三断橋と呼ばれる橋を渡ると・・・おおーなんだこれは

ってこのお堂、ガイドには何にも書いてないな。なんだろうこれは。

このあたりは一面の大きな干潟になっている。

この島を廻りこんでいくと何やらまた建物が現れた。

ウェブサイトによるとここは観海閣といい「頼宣が慶安年間(1648年~1652年)に木造の水上桜閣として建立したもので、対岸の紀三井寺と対面しています。(当時の建造物は昭和36年に第二室戸台風で流出。現在はコンクリートで再建されたもの。)」ということだ。へぇーここで家臣を集めて宴とかやったんだろうか。コンクリート造の再建なのが惜しい。元のオリジナルの建物を見たかったな。

この観海閣の後方にある階段を上ると

立派な多宝塔だ。

WIKIによると「1649年(慶安2年)、徳川家康の三十三回忌の際、養珠院(お万の方)が、妹背山に法華経を書写した経石を納めた石室を造り、その上に小堂を建てたのが創始である。養珠院に賛同した後水尾上皇や庶民など、身分を問わず全国から経石を集めて総数は20万個になったという。養珠院の没後、1653年(承応2年)に紀州藩主徳川頼宣は、小堂を二層の多宝塔に改築し拝殿と唐門を建立した。その後、養珠寺の末寺になり、紀州徳川家の庇護を受けていたが明治維新で江戸幕府が滅亡すると禄を失い荒廃していき、檀家のない海禅院は多宝塔を残すのみとなった。明治時代に紀州徳川侯爵家の意向で、海禅院は本山報恩寺の末寺となった。」

紀州徳川家ゆかりの寺だったんだね

なかなか見ごたえがあった。では三断橋を戻って和歌山駅方面へ戻りますか。とにかくハラ減った。

R42を北上してひたすらペダルをこぎ続け

右に曲がると和歌山駅!しかし、和歌山駅まで行ったら自転車が停めずらいかもしれないなー・・・などと考えを巡らせていたら

おっ 和歌山城!ここならバスが駅に通じてるだろうし、自転車も置く場所があるんじゃないか?

と、ヨミ通り自転車置き場あったよ。ここにクロスバイクを置いて

和歌山城の正面にある市役所前バス停でほどなく和歌山駅行きのバスがやってきた。

こうして和歌山駅に到着してこの駅前の店やっとの昼食をとって

和歌山線に乗ってスタート地点の粉河駅に戻り

無事、クルマを回収した。和歌山城、スルーしちゃったけどこんどは和歌山城をぐるっと見てみたい。でも和歌の浦周辺って食べたくなるようなお店が全然なかったな。この周辺に海鮮の食事を出してくれる店を出してくれたらはやりそうな気がするけどな。

※2017年6月10日
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