東海道五十三次の歩き旅①日本橋~品川宿

新型コロナウィルスが猛威を振るい外出自粛の号令でこれまで登山やサイクリングに出かけていたのがすっかりインドアな生活になってしまい深刻な運動不足に陥ってしまった。このままの状態で山登りをするとちょっとキツそうと思いリハビリに何がいいかと考え街道の宿場町をめぐる歩き旅をすることを思いついた。スタートは東京日本橋だ。

日本橋のたもとにあるこの道路元標はレプリカで本物は車道にある。

車が通行しないことを確認してバっとダッシュで近づいてホンモノを撮った。

10:02 ではここ日本橋からスタートしましょう。

R15を進む。このあたりは大きいオフィスビルが建ち並び日本の中枢といった感じ。

10:29 目の前に高架が現れた。これは首都高と接続する東京高速道路だ。

歩道に突如として現れる柱・・・これが新橋の欄干の柱なのか。

京橋は東海道を日本橋を出発して京都方向に向かう場合、最初に渡る橋で1959年に京橋川が埋め立てられ京橋は撤去されたが欄干の親柱のみ記念碑として残されたという。

10:40 また目を引く石碑が。ここが銀座発祥の地ということだ。

石碑には「慶長17年(1612)、徳川幕府は、現在の中央区銀座に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置。当時、町名は新両替町とされたが、通称で銀座町と呼ばれ、明治2年には正式に銀座を町名とすることを公示さる」とある。ここで貨幣鋳造してたってことなんですね。

すると、ほどなく銀座に着いた。

銀座和光の雄姿。この建物も1932年に竣工したということで戦前からの歴史がある。

銀座の中心地を東海道が通っているってことなんですね。

日本橋から2㎞。

10:57 また高架だ。汐留から首都高より分岐する東京高速道路だ。首都高高架が運河や川の上につくられたということを考えるとここにはかつて橋があったってことなのか。

汐留川にかつて架かっていた橋を新橋と呼んでいたということでこの親柱は関東大震災後の1925年に架け替えられたものだという。

汐留川は戦後に暗渠にされちゃったのかな。新橋のそばにあった石碑は「銀座の柳」の歌碑と書いてある。

ネットで調べると昭和7年発売された『銀座の柳』(作詞・西條八十、作曲・中山晋平)の歌碑で、四家文子(よつやふみこ)さんが歌って大ヒットした曲ということだけど・・・うーんさすがに知らない。

11:08 おや?交差点のむこうになにやら神社があるようだ。

日比谷神社・・・と書いてある。

WIKIを見ると創建年代は不詳で、元は現在の日比谷公園内の大塚山に鎮座していたという。慶長年間、江戸城の拡張に当たり、氏子とともに芝口(現在の東新橋)に移され、明治時代、鉄道(東海道線)の敷設に当たり新橋4丁目に遷座したという。その境内地全域が計画道路の予定地にかかっていたことから、2009年に東新橋2丁目の国道15号(第一京浜)沿いに遷座したということだ。

日比谷神社でお参りをして、さらに先へ進む。

11:27 大門の交差点だ。

大門といえば増上寺。ちょっくら寄ってみましょうか。増上寺の参道は東海道の街道に面していたということなんですね。

増上寺は徳川家の菩提寺として知られている。ここにはかつて徳川家霊廟や五重塔をはじめとした数々の文化財があったが第二次世界大戦の米軍の空襲によりほとんどが消失してしまったのは残念でならない。

本堂の東京タワーとのコラボは外国人観光客にも人気。ここで「please take a picture for us with temple and tower」なんてリクエストされたことがある。

このロケーションも東京タワーの敷地がもともと増上寺のものだったと知ると「なるほどね」って思う。

ではお昼を食べにどこかお店に入りましょうか。

大門の参道沿いにあるこのお蕎麦屋さんに入ってみましょう。

何気なく入ったけど創業年を見てびっくり。寛政3年って1791年?徳川家斉に松平定信、果てはフランス革命?

では休憩を終えて先へ進みましょう。首都高都心環状線の高架をくぐると

12:42 あぁやっぱり高架の下に川があったか。これは古川と呼ぶそうだ。ここは暗渠になってないんだね。

JR田町駅を通過。

高輪ゲートウェイ駅の手前になにやら石垣が?

おぉ・・・これが高輪ゲートウェイの元になった高輪大木戸跡か。

この大木戸は東海道の両側に築かれた幅約20メートルの土塁の間に木戸を設け、明け六ツに開き、暮れ六ツに閉じて治安の維持と交通規制の役割を果たしたという。

浮世絵ではこんな感じで描かれている

ということでこの大木戸から先が江戸の外ということになる。この大木戸の内側には札ノ辻という交差点がありここはその名の通り高札場があったという。では江戸の外へと進んでいきましょう。こんどは右へ行くと泉岳寺の表示だ。

せっかくなので右に曲がって寄っていきましょう。

坂を上がると門が見えてきた。

ここはかの有名な忠臣蔵で吉良邸に討ち入りした赤穂四十七士が浅野内匠頭の墓所のある泉岳寺に行き仇討ちを果たしたことを報告しその後幕府の命に従い切腹した義士たちの墓所となっている。

ここの奥に赤穂義士の墓所があり

ひとつひとつの墓石に線香をたむけた。

では東海道を先に進みましょう

14:15 JR品川駅を通過

品川駅を過ぎてR15から左に分岐して

京急の踏切を渡ると

東海道1番目の宿場町、品川宿に入った。

往時の品川宿はこの浮世絵の通り海岸に面していたという。

今ではすっかり埋め立てられてこんなに海が迫っていたなんて想像もできないがちょっと海側に路地を入るとこんな風景が広がっていたりする。

この灯台っぽいオブジェは御殿山下台場跡といいかつてここに外国船を打ち払うための台場があったという。

さて東海道に戻ると最初に現れるのは一心寺。

WIKIを見ると1855年(安政2年)、井伊直弼の開基だという。創建当初は僧侶ではなく、修験者が管理しており、日々護摩がたかれていた・・・桜田門外の変で暗殺された大老の井伊直弼が開いたんだ??

一心寺からちょっと進むとこんどは品川宿の本陣跡の石碑だ。この奥に品川区立聖蹟公園がありそこまでの広い敷地が本陣だったという。

15:25 品川橋を通過する。

目黒川にかかる橋ってことか。

往時はこの橋を大名行列が何回も往復したんだろうな。

品川橋を渡り、南品川宿を進む。この道幅は江戸時代の道幅そのままなんだろうな。

ちょっと休憩。

あぁうまい。

さて先へ進みましょう。品川寺に立ち寄った。

HPより「東海道に面した品川寺(ほんせんじ)は、平安時代前期に開創され、「品川」の地名の由来となった品川区で最古のお寺です。江戸六地蔵のひとつ地蔵菩薩は3m近くあり、1300年間、 旅人と町の人々を見守っています。」とある。

へぇ・・寛永年間に鋳造されたものなんだ。

先を進みましょう。ところどころに古そうな建物が残っている。

だいぶ陽も傾いてきた。

と、案内の札が立っている。なになに・・・おぉ、この先に処刑場があってこの橋は受刑者と最後の別れをしたことから「涙橋」と呼ばれてたってことか。

では涙橋を渡って処刑場跡に足を踏み入れましょう。

進んでいくと暗くなってきたのも手伝ってこれまでと雰囲気が違う感じになってきた。

16:42 おお・・ここは・・・

かの有名な鈴ヶ森刑場か。

うーん ここで磔にされたのか。

で、これが磔を固定する礎石ってことなのね・・・

線香をそなえさせていただきました。

WIKIによると1651年(慶安4年)に開設されてから1871年(明治4年)に閉鎖される220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言い伝えられているが、はっきりした記録は残されていないという。当時は東京湾沿いにあり、刑場近くの海で水磔による処刑も行われたとの記録も残されているそうだ。当時の東海道沿いの、江戸の入り口とも言える場所にあるが、刑場設置当時浪人が増加し、それにともない浪人による犯罪件数も急増していたことから、江戸に入る人たち、とくに浪人たちに警告を与える意味でこの場所に設置したのだと考えられているという。

こうして1回目の東海道の歩き旅は日本橋をスタートして品川宿を過ぎて鈴ヶ森刑場に至る16.7㎞を歩き

16:58 京急の大森海岸駅にこの日の行程は終わりとした。

次回はここ大森海岸から続きを歩きます。

※2021年10月23日

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