東海道五十三次の歩き旅④程ヶ谷宿~戸塚宿

前回、程ヶ谷宿の保土ヶ谷駅でゴールした同じ保土ヶ谷駅より今回は戸塚宿を目指す。

9:18 保土ヶ谷駅を出発。駅ロータリーを進み東海道に向かいます。

東海道に入るとそれっぽい道幅になる。

で、最初に出てくるのが問屋場跡の標識だ。ここに程ヶ谷宿の問屋場あったということか。ちなみに問屋場とは人馬の継立業務で、幕府の公用旅行者や大名などがその宿場を利用する際に、必要な馬や人足を用意して、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶ役割と幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける飛脚業務で、継飛脚(つぎびきゃく)の役割があったという。

で、問屋場跡からほんの数メートルでこんどは高札場跡。いまではアパートが建っている。

で、次は金沢横丁を示す標識だ。ここが金沢浦賀への追分で交通の要衝だったことを示している。

古い石碑が4基建っている。解説を見ると「この地は、旧東海道の東側で、金沢・浦賀往還への出入口にあたり、通称「金沢横町」と呼ばれました。 金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、 道標として四基が建立され、現在残っています。四基の道標は、それぞれ次のとおりです(右側から番号を付す)。
1  円海山之道〔天明三年(一七八三)建立〕
左面に「かなさわかまくらへ通りぬけ」と刻されています。 建立者は保土ヶ谷宿大須賀吉左衛門です。 円海山は「峯のお灸」で有名でした。
2 かなさわ、かまくら道〔天和二年(一六八二)建立〕
左面に「ぐめうし道」と刻されています。
3 杉田道〔文化十一年(一八一四)建立〕
正面に「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪」と刻されています。 句碑を兼ねた道標は珍しく、また作者の其爪は江戸の人で河東節の家元です。
4 富岡山芋大明神社の道〔弘化二年(一八四五)建立〕
建立者は柳島村(現茅ヶ崎市)の藤間氏。 芋明神は、富岡の長昌寺で、ほうそうの守り神として信仰を集めていました。
」とある。

江戸期からの道標が修復された跡があるとはいえ残っているってすごいね。

では東海道を先に進みましょう。東海道線の踏切を越えて

R1に出ると正面に現れるのが

保土ケ谷宿(苅部)本陣跡だ。

解説には「慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が 「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。
 東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。 保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則(かるべぶぜんのかみやすのり)の 子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿 における最も有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫(せいべええっぽ) が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。 本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の 脇本陣がありました。
」とある。

で、これが本陣の当時から残る通用門・・・らしい。

戸塚まであと8㎞だ。あと2里ってところか?

ちょっとわかりにくいけど程ヶ谷宿の宿場町の街並みを表す標識だ。こういうのは往時の宿場町のイメージをしやすくていいね。

こんどは脇本陣(水屋)跡を示す標識だ。

この脇本陣も現在は消防署に様変わりしている。

で次が旅籠屋(本金子屋)跡だ。これは1869(明治2)年に再建された建物がそのまま残っているという。

建坪79坪(約261㎡) 間口七間(約12.7m) 奥行⑪間(約20.9m)室数13。これは貴重。

9:51 上方見附跡と一里塚跡だ。

この絵図は江戸期のものらしいがこんな感じだったらしい。

このこんもりしてるのが一里塚をミニチュアで復元したってことなのかな。

この江戸型見附の石垣より川を挟んで、

外川神社が建っている。この神社は「明治 2 年(1869)保土ケ谷宿の湯殿山講中の先達が、この地に羽黒山麓の「外川仙人大権現」の分霊を祀ったのが始まりです。境内にある道祖神は虫封じ・航海安全にご利益があるとされてきました。また、境内には、横浜市の名木・古木に指定されているケヤキがあります。」ということだ。

すぐそばにこんな石塔があった。湯殿山供養塔といい、「出羽三山とは、羽黒山、月山、湯殿山の総称で、西の熊野と並び、古来より山岳信仰の霊山として信仰を集め、庶民は天下泰平、五穀豊穣、無病息災を祈願して参拝しました。この講中を三山講といい、江戸後期に盛んであったといわれています。三山供養塔は講中の人たちによって建てられたものです。保土ケ谷は三山講が盛んであったようで、区内には5基の供養塔があります。」ということだ。

街道沿いにはその地域の信仰の対象が置かれて長く敬われてたんだなって感じる。

このあたりの松並木はこの浮世絵の場所なのかな。

東海道はR1の保土ヶ谷2丁目の信号から右手の側道に入っていく。

元町ガードの信号を過ぎると

路傍に庚申塔が祀られている

10:21 この庚申塔のすぐに権太坂の入口だ。

おぉ、ずうっと上り坂が続いているよ。

ここが権太坂とあらわす標柱だ。

坂の名前の由来は、旅人が老人に坂の名前を尋ねたところ、自分の名前を聞かれたと思い「権太」と答えたという説と、藤田権左衛門という開発者の名前から「権左坂」と呼ばれていたものが転じたという説があります」へぇーそんな由来だったんですね。

この権太坂を描いた浮世絵を見ると「かつて権太坂は、今よりも勾配がきつく、東海道を江戸から上方へ上る旅人が初めて出会う難所でした。松並木が続き景色も良かったため多くの浮世絵に描かれています。しかし、明治 17 年(1884)の 国 道 1 号 開 通 や 明 治 20 年(1887)の東海道線開通により、通行量も減って道幅も狭くなりました。権太坂は、昭和 30 年代に宅地開発が進むまで往時の街道の面影を残していました」とあるのがなんとなくわかる。

10:42 勾配が緩くなった。権太坂の坂道がこのあたりで終わった。

権太坂を越えてしばらく進むと広場が見えてきた。

境木立場跡の解説だ。「立場とは人足や馬子の休息所でしたが、旅人が多くなるにつれて茶屋も営むようになりました。立場茶屋は宿場間の距離が長い所や山坂の難所などがある場合に置かれたといわれています。保土ケ谷宿と戸塚宿の間には権太坂、焼餅坂、品濃坂などの難所があり、そのため、境木と上柏尾村にそれぞれ立場茶屋がおかれていたといいます。地蔵堂近くにある若林家が当時の立場茶屋で、ここでは牡丹餅が売られ、境木の名物でした。」なるほど、宿場の間に設置された休憩所だったってことか。

これは境木立場を描いた浮世絵みたい。こんな感じで茶店があったんだね。今のイメージと違ってけっこうな山の中って感じだったんだろうか。

この立場の付近にあるのが境木地蔵尊だ。

由来については「地蔵堂は万治2 年(1659)頃の建立といわれています。この地蔵尊は、むかし、鎌倉腰越の海辺に打ち上げられ、土地の漁師の夢枕に立ち、「わしを江戸へ運んでくれたら、この海を守ろう」とのお告げがありました。早速、漁師は地蔵を牛車に乗せて江戸に向かいました。ところが、境木まで来て動かなくなったため、村人たちが引き取り、お堂を建てて祀ったところ、村は大変栄えた」ということだ。

この地蔵尊前の広場には武相国境を表す標柱が建てられている。ここで武州から相州に足を踏み入れることになる。

ここから東海道からちょっとはずれて萩原代官屋敷・道場跡に寄り道してみた。

説明書きだ。「萩原家は旗本八千石杉浦氏の家臣で、代々杉浦氏の領地である平戸村(現・戸塚区平戸)の代官を勤めていました。幕末の当主萩原太郎行篤は直心影流免許皆伝の剣術家として近郷に知られ、門人が二百数十名いたといわれています。諸国から剣術の教えを乞う剣術家も多く、安政5 年(1858)8 月には、のちに新撰組隊長となった若き日の近藤勇も訪れたという文書が残っているそうです」へぇー新選組の近藤勇もここにやってきたのか。

現在では普通の住宅になっていて住民のかたがいらっしゃるので中に入って撮影するのは遠慮した。

東海道に戻り進むと、左手にこんもりとした緑に覆われた空き地がある…と思ったら

品濃一里塚だ。

日本橋から9 番目の一里塚でにあたり、ほぼ完全な形で残っている一里塚は、県内ではここだけだということだ。ちょっと大きすぎないか?

東海道を進んでいくとやがて急な下り坂となる。「品濃坂は、朝早く江戸を発ち、日暮れまでに戸塚宿へと向かう旅人には宿場町までもう一歩の所です。一方、江戸方面へ向かう人にとっては最後の急な登り坂で、この難所を越えれば境木の立場まであと一息でした。

横浜環状2号のまたぐ橋を渡る。

下を通る環状道路は切通しを掘削して通したんだろうな。

県道桜木東戸塚線の高架をくぐる。

12:01 東戸塚駅入口の信号を通過。

R1に合流してしばらく進むと古い土蔵造りの建物が現れた。鎌倉ハムの土蔵だ。特に説明書きはないがこの敷地を掃除している人がいたので遠巻きに写真を撮らせてもらった。この土蔵をどのように使っていたかはネットで知らべたがわからなかった。

R1より左へ分岐して不動坂の緩い坂をのぼる。

すると赤レンガ造りの立派な建物が現れた。これが鎌倉ハムの発祥の地ということだ。「明治10年頃に英国人のカーチスが柏尾村に外国人専用のホテルを建て、宿泊客に供するハムを作ったのが始まりと言われています。明治20年頃に地元の斎藤満平等がカーチスからハムの製造法を学び、ハムの製造を始めました。煉瓦造りの建物は大正7(1918)年に建造され、2階はハムの仕込み室でした」とある。

東海道はやがて県道横浜伊勢原線の川沿いを通る。

このあたりの風景はこの浮世絵の図によく似ている気がする。

五太夫橋を示す石碑だ。「石巻(康慶)五太夫は小田原北条氏 の家臣で豊臣秀吉 の小田原攻めのとき北条方の使者でした。北条氏滅亡後、鎌倉郡中田村で謹慎していた五太夫が、天正一八(一五九〇)年江戸に入る徳川家康 をこの辺りで出迎えたことから、五太夫橋の名がついたといいます。泉区の中田町には五太夫の墓があります。」とある。

五太夫橋を渡ると戸塚宿の江戸型見附の石碑が建っていた。戸塚宿に到着だ。

で、すぐそばにあるのが吉田一里塚だ。ここで日本橋から10里、約40㎞だ。

ここを過ぎると吉田大橋を渡る。

この橋がこの浮世絵の場所ってことみたい。

吉田大橋をふりかえる。

橋を渡ると右手に善了寺の門が現れる。「天福元(1233)年江戸麻布善福寺の釈了海の弟子「釈了全」が浄土真宗のお寺として開山したそうです。本堂の前には親鸞聖人像が建っています。本尊は蓮如作と伝えられる阿弥陀如来です。」ということだ。

こうして戸塚の宿場を進むと

JR戸塚駅に到着した。今回はここをゴールとすることにした。11.6㎞、5時間半ほどかけて歩いた。次回はここ戸塚駅をスタートして東海道の続きを歩きます。

※2023年9月16日

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