東海道五十三次の歩き旅③神奈川宿~程ヶ谷宿

前回、神奈川宿の手前の東神奈川駅でゴールしたが夕刻で薄暗かったので今回は一つ手前の駅の京急神奈川新町駅よりスタートすることとした。

10:08 ということで京急神奈川新町駅を出発。

まずは駅前の狭い道をちょっと東へ逆走。

駅からすぐの神奈川通東公園にオランダ領事館がここにかつてあったことを示す石碑がある。

国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所のHPによると「現在、神奈川通東公園となっている場所に昭和40年(1965)まで長延寺があった。この寺が、横浜開港当時にはオランダ領事館にあてられていた。この辺りは神奈川宿の江戸側の入り口にもあたる」ということだ。オランダ領事館跡の石碑の傍らにあるこの石碑はなんだろね?

ここから神奈川宿に入る。

10:23 線路の向こうの笠䅣稲荷神社に立ち寄る。

横浜市神奈川区のHPによると「笠をかぶった人がこの前を通ると、不思議に笠が脱げ落ちたそうです。そのため笠脱稲荷と呼ばれるようになり、その後、笠脱を笠䅣に改めたといわれています。」こえーな。

由来は「天慶年間(938年 – 947年) に、淳和天皇勅願所浦島院観福寺の僧侶が隣域の山腹(稲荷山)に社殿を建立し、伏見稲荷大社の御分霊を勧請したことが創祀と伝えられ、同寺の守護神及び附近一帯の産土神として崇敬を集める。」なんだそうだ。

境内には鎌倉時代末期に作られた「板碑」と呼ばれる石碑があり

横浜市の有形文化財に指定されているということだ。

笠䅣稲荷神社と線路を挟んだ隣にある良泉寺にも立ち寄った。

前回と被るが「良泉寺は海岸山と号し、浄土真宗大谷派に属す。本願寺第8世蓮如上人に帰依した蓮誉が、小机付近の旧街道沿いに草創、慶安元年(1648)入寂したこの寺の第4世良念の代に、徳川幕府より境内地の施入を受け、現在地に移転したと伝えられる。開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快よしとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれる。」すごいね。

前回ここに来たのは夕刻で疲労もあったのでお参りしなかったが今回はお参りしてきました。

で、1ブロック挟んで能満寺だ。

能満寺は、海運山と号し、横浜に古くからある高野山 真言宗のお寺です。正安元年(1299年)の鎌倉時代に、内海新四郎光善という網元漁師が、海中より霊像をすくい上げ、彼の娘に託されたという仏のことばにしたがって、このお寺を建立しました。本尊は高さ5寸(15センチ)、木造坐像の虚空蔵菩薩です。右手に剣、左手に如意宝珠を持つ、神秘的な仏様です。 」とある。

鎌倉時代から続いている古いお寺なんだね。

次は神明宮だ。

神明宮の草創についてはいくつかの伝説があるが定かではない。「新編武蔵風土記稿」は別当能満寺の草創と同じ正安元年(1299)の勧請としており、この神社と能満寺が草創当初より極めて密接な関係があったことを伺わせる。かつて境内を流れていた上無川に牛頭天王の御神体が現われ、洲崎大神およびこの神社に牛頭天王を祀ったとの伝承もある。また、境内にある梅の森稲荷神社には、若い女旅人にまつわる哀れな話も伝わる。」とある。

横浜市立神奈川小学校の塀に神奈川宿の絵図が設置している。ここに通っている小学生たちはかつてここが宿場町だったってことはわかってるのかな。

神奈川宿って大きな宿場町だったんだろうな。

で、こんどは金蔵院だ。

金蔵院は、京都醍醐三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹である。その後、徳川家康から十石の朱印地を許された。「金川砂子」のこの図には江戸後期の様子が描かれている。参道は街道まで延び、金蔵院・熊野神社が境内に並び立っている。本堂前には徳川家康の「御手折梅」と称された梅の古木が描かれている。かつては毎年1月に当院の住職が、この梅の一枝をたずさえて登城するのがならわしであったという。

本堂はRC造になっていた。空襲を受けたのかな。

かっこいい門だ。

その向かいにあるのが熊野神社だ。「寛治元年6月17日(1087)に醍醐三宝院宮勝覚僧正が、紀伊国(和歌山県)牟婁郡熊野に坐す熊野権現(官幣大社熊野本宮大社)の神霊を分祀、神奈川権現山(現幸ヶ谷山上)に社祠を創立、神奈川郷の総鎮守として、熊野三社大権現と号し奉る。口碑によれば、後三年の役に、源義家公、社参せられ、帰途再び当地に立寄られ、この地を幸ヶ谷と名付けられたと伝へられる。」とある。

この狛犬は「石造大獅子 狛犬 嘉永年間 鶴見村 石工 飯島吉六作」という表記がある。

有名な石工さんだったのかな。

この松並木は東海道の街道っぽさを演出するために整備したのかな。この熊野神社からほど近いところにあるのが

おぉすごい!高札場じゃん。

神奈川宿の高札場はもちはR15沿いの神奈川警察署近辺にあったらしいがこれは復原のレプリカになる。だけどこうやって設置して見せてくれるのはレプリカでもありがたいですね。

高札場をあとにするとすぐに表れるのが成仏寺だ。

成仏寺は、鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の寺である。徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地が現在地に移された。安政六年(一八五九)の開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われ、へボンは本堂に、ブラウンは庫裡に住んだという。へボンはへボン式ローマ字で知られ、日本最初の和英辞典を完成した。またブラウンは聖書や讃美歌の邦訳に尽力した。

なるほど、外国宣教師宿舎跡って石碑がここにあるのか。

へぇーヘボンさんはあの本堂で寝泊まりしてたってことか。なんかコワそう。

R15の大通りに出ると

神奈川宿本陣の案内だ。ここに本陣があったのか。もうそんな面影は無いな。

と、すぐにR15から分岐して宮前商店街の路地に入る。

この路地を進むと右手に大きな鳥居が。洲崎大神とある。

洲崎大神は、建久2年(1191)、源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して祀ったことに始まると伝えられている。「江戸名所図会」の様子は、今も石鳥居や周囲の地形に偲ぶことができる。神社前から海に向かって延びる参道が、第一京浜に突き当たるあたり。そこが、かつての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られた。」とある。

洲崎大神ほど近いところにあるのが普門寺だ。

普門寺は、洲崎山と号し、真言宗智山派に属す。山号の洲崎は洲崎大神の別当寺であったことにより起こった。また、寺号の普門は洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことより、観世音菩薩が多くの人々に救いの門を開いているとの意味である普門とされたと伝えられている。江戸後期には、本堂・客殿・不動堂などの建物を持ち、開港当時はイギリス士官の宿舎に充てられた。」とある。

なるほど、このお寺も開国時に外国人の宿舎として協力してたんだね。で次に現れるのが甚行寺だ。

甚行寺は、真色山と号し、浄土真宗高田派に属す。明暦2年(1656)第1世意円上人が本山専修寺の第14世を招いて、この寺を草創したと伝えられている。開港当時、本堂は土蔵造りであったが、改造を加えてフランス公使館に充てられたといわれている。大正12年の関東大震災には全ての建物を倒壊焼失し、さらに昭和20年の横浜大空襲にも再度全焼した。その後、昭和46年に本堂・客殿を鉄筋コンクリート造で再建し、現在に至っている。」とある。

11:39 京急神奈川駅を通過する。

東海道線とR1を渡る。

で、あの高台にあるのが

本覚寺だ。

説明書きによると「本覺寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。もとは臨済宗に属していたが、 戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(1532)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた。 開港当時、ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、さらには湾内を 見通すことができる本覚寺をアメリカ領事館に決めたという。 領事館時代に白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である。」とある。

なるほど、ここはかつてアメリカ領事館だったんだな。

ここにハリスとかが執務してたってことなのか。さすがにこの本堂は戦後のものっぽいな。

さすが、海の玄関口の神奈川宿は幕末に開港された港だけあって英仏米蘭の外交使節にゆかりのある寺社仏閣が数多くあるわ。東海道に戻るとこんどは赤い鳥居が現れる。大綱金刀比羅神社だ。

社伝によると平安末期の創立で、今の境内後方の山上にあった。その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入する船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。また、江戸時代には、神社前の海道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目に当り、土盛の上に樹が植られた大きなものであった。」とある。

東海道を進むと結構な上り坂になりなる。この通り沿いにある割烹田中家さんは

この江戸時代に描かれた神奈川宿の浮世絵にある田中家がそのまま残っているという。

かつては海食崖ですぐそこには海が広がっていたのが今ではその坂道が往時の姿を今に残しているってことか。この浮世絵には飯盛女も描かれていて神奈川宿は歓楽街という顔も持っていたのかな。

ほんと、浮世絵に描かれている店が今でも現役で営業してるってすごいよ。

ここの坂を上ると「神奈川の台と茶屋 ここ台町あたりは、かつて神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見おろす景勝の地であった。 弥次さん、喜多さんが活躍する『東海道中膝栗毛』にも、「爰は片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下桟などわたして、波うちぎはの景色至ってよし」とある。「おやすみなさいやァせ」茶屋女の声に引かれ、二人はぶらりと立ち寄り、鰺をさかなに一杯ひっかけている。 上図の「櫻屋」が現在の料亭田中家のあたりだといわれている。」と神奈川の台と茶屋についての解説がある。このあたりは現代と違い、海がすぐそこまで迫ってきてて景勝地のような感じだったんだろうな。

こんどは坂をちょっと下ったところにあるのが神奈川台の関門跡の案内だ。

ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政六年(一八五九)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治四年(一八七一)に他の関門・番所とともに廃止された。」とある。

そうか、開国当時このあたりに多数いた外国人を守るために監視所を設置したってことか。

12:10 上台橋を渡る。

この橋を渡ったところにあるそば処出雲さんでランチ休憩をとった。食事したところで東海道歩きを再開。首都高をくぐる。

途中、Yamanashi工房 ひまわりさんに立ち寄りかき氷を食べた。いやぁ9月とは言え暑かったしね。リフレッシュできました。

この店を出るとすぐ近くにあったのが八王子道との追分。なるほど、ここは交通の要衝ったんだね。

にぎやかになってきた。

おぉ、いつの間にか程ヶ谷宿の江戸見附についたのか。

ここから先は程ヶ谷宿だ。

相鉄天王町駅が見えてきた。

相鉄天王町駅の駅前広場を見ると橋の遺構が展示されている。

旧帷子橋跡と説明書きがある。現代の帷子川は昭和になって土木工事で川の流れを変えられたので往時の姿をとどめてないけど

なるほど、かつての程ヶ谷宿の浮世絵にある橋はここにあったということなのか。

あの街道沿いに建つ建物は古そう。でも昭和初期なのかな。

旧中橋跡を示す標識だ。かつてここに橋があったのか。

こうして神奈川宿から程ヶ谷宿まで、幕末の横浜開港にゆかりのある施設を見分しながら8.2㎞歩いてJR保土ヶ谷駅にてこの日のゴールとした。短かったけど暑かったしね。次回はこの保土ヶ谷からスタートします。

※2022年9月17日

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